僕が「恋は雨上がりのように」の映画にハマった理由
こんばんは。
くま。です。
色んなジャンルで好き勝手書くことを目的としたこのブログ。遂に映画に手を出します。
元々映画やPVみたいな映像美術は好きだったけど、別に映画の内容を批評するなら、自分じゃなくていいと思う。
だから、なんでこの映画に自分がハマったのか、一番好きな「文章」…自分の言葉で書きたいなと思います。
今日観た映画。
「恋は雨上がりのように」
漫画・アニメが始動のこの作品。
冴えない45歳バツイチ子持ちのファミレス店長と、
青春という二文字に誰よらも苦しむ女子高校生の話。
実写化作品のジレンマを構成で打ち消した
数々の駄作を生んできた実写化作品なだけに、
「誰が演るのか」「どうまとめるのか」が問われる。
「誰が演るのか」に関してはこの上ないキャスティングだったのではないだろうか。
小松菜奈が若干スタイル的に違和感を感じたものの、演技力というか再現力が高かった分何も問題はなかった。
では問題は「どうまとめるのか」。
基本的に長編であったり濃密な作品であればあるほど、2時間という尺に収まらない。
結果開きなおり、数多の死体…じゃなくて駄作を生んでしまった関門。
この作品はここが秀逸だった。
アニメでは、12話(だった気がする)の前半6話が「恋」にフォーカス、後半6話を「夢」にフォーカスしていた。日常を繊細に表現する特徴も相まってか、6話の中でも「永く」感じることがあった。
その「永さ」を「無駄」にしないためか、
映画ではほぼ同時にフォーカスをしていた。
絶妙なミックス。
本当に美味しいカルボナーラを食べた時にチーズのコクと、卵の甘さが絶え間なく襲ってくる感覚。
アニメの構成を順番を違和感なく入れ替えたことにより、非常に気持ちのいい「まとめ」だった。
作品として、素晴らしいものであった。
自分に思い当たる節がある。自己投影のしやすさ。
構成だけで、人はハマらない。
じゃあなぜハマったのか。
女子高生・橘さん
短距離走の選手として逸材だった。陸上…走ることそのものを心から愛していた。それが大きな怪我で奪われた。
夢を失った彼女の前に現れた、ステキなもの(バイト・店長)を彼女は新しい拠り所にしていた。
店長
本の虫。大学時代は小説家になると夢を掲げ、家庭を持った後も夢を持ち続けた。しかし夢で家庭を失った彼は、「現実」を考えなくてはいけない中途半端な状況に、筆を置いた。書くことをやめ、夢という言葉を忘れた(正確には忘れようとした)彼は「すっからかん」だった。
すっからかんだからこそ、橘さんが入れ、拠り所になったという解釈も出来る。
この作品が「恋」というタイトルなので解釈が難解になったけど、店長も橘さんも人に「恋」をしたのではない、夢に恋したということが前提にある。
実は二人の状況、その合間にくま。はいる。
水泳でやっとこさ、全国大会で結果を残し「ここから」というタイミングで怪我。ドクターストップで夢(というか執着したかったもの)を無くした。
その後色んなことをやっている。
サッカーやったり、組織を立ち上げたり、サラリーマンしたり、物書きしたり、映像つくったり。
くま。は拠り所を転々としてる。
ヤドカリ状態。
ただ、店長と同じで捨てきれずに持ってる…なりたい自分が2つ。それを夢として、それに繋がることを結果的にしてたけども、どうしても中途半端な感覚が拭えない。
多分それは、(20代という失敗できる若さとはいえ)少なからず現実を感じているから。
たった一瞬でも上に行けたときに感じた、やれる!いける!という感覚に未練…いや執着しているから。
その感覚が持てないのに、夢なんて語ってもいいのだろうか。
結局拠り所が欲しいだけではないのだろうか。
店長が橘さんに言った
「若さとは、素敵な反面、時に凶暴な暴力になる」
その通りなのではないか。
くま。は橘さんと、筆を置く直前の店長の間くらいにいる。
そう捉えてしまったからこそ、この作品にハマったのかもしれない。
君にも。
残念ながらこのセリフは映画にはなかったが、
店長も最後に気づいた。
自分は大人かも知れない。けど大人なんかじゃない、夢を持っていいのは子供だけじゃないと。
二人にとっての夢。
その定義は、楽しいに愚直かどうか。
雨は苦しいこと。じゃない。
悩んだ時間。
恋は雨上がりのように
それはつまり
悩んだからこそ、愚直に楽しめる
とくま。も悩みながら、頑張ろう、夢の再スタートはいつでもきれる。と少し明るく映画館をあとにしましたとさ。
あと
アニメではAimerのリフレインが主題歌だったのでやっぱ「恋」の色が強かった
対して映画は神聖かまってちゃんと亀田のフロントメモリーで「夢」と「現実」の色が強かったな
印象が全然違ってよかった。
最後雑だけど以上!
ちゃんちゃん。
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